ステージ3の乳がん 医薬を用いず快方に-その1

横山玉枝乳がんを通しこれまでの自分を見つめ直す
 平成14年、当時の私は、徘徊が始まった90歳の姑に付き添い、出歩くことが多くなり少々疲れ顔だったのでしょう、姑の通院に同行した私に先生が心配して声を掛けてくださったことがきっかけで乳ガンが分かりました。
 私は、いつの頃からかできた左胸の赤い斑点を、先生にお見せしました。先生はすぐに針を刺して組織検査をしてくださり、一週間後ステージ3の乳ガンと宣告されました。
 その後、国立がんセンター中央病院にて即手術を勧められましたが、今までに娘の喘息、商売のこと、私の自律神経失調症をお救いいただいていたので、迷うことなく
教祖様に一心にお縋りさせていただくことを決意し、同年6月21日に発願のお許しを賜り、日参を始めました。


横山資料 日参のある日、信者さんから、何人も踏み行わなければならない神の道を諭され、舅姑ばかりに気を遣い、夫婦一体、親子一体の神の道から外れていたことに気づかせていただき、以来反省の日々を送るようになりました。
 乳ガンの患部は御神光を賜り、表面へ表面へと盛り上がって大きくなり、尊い福の花で湿布すると毒素を排出させていただくようになりました。
 
 平成17年には、乳ガンで亡くなった血のつながる霊を分からせていただきました。
 その上、御神光によって普通では知ることのできない、わが家を絶家にまで至らしめた色情因縁も分からせていただきました。乳ガンの霊は3体もありました。その後、霊救済もお願いし、手厚く供養させていただきました。
 乳ガンは年々大きくなり、平成19年には、痛み・かゆみも強くなり切羽詰まった状態となっていました。日々背水の陣で御神語奉唱をさせていただいていたときのことです。「入信した当時は店もなかった」という囁くような声を聞きました。
 入信前の昭和31年、東京・茅場町で材木商を営んでいた、主人の長兄の元へ、私たちは両養子として入りました。主人は生まれてすぐに漁師の家に養子に出されました。子供のない義兄(舅)は主人を連れ戻し養子に迎えましたが、商売を知らない主人に安心して店を任せられなかったのでしょう、早々に私たちは「よそで材木商をするのは構わないが、店舗と住まいを明け渡し出て行くように」と、言い渡されました。
 私たち夫婦は、突然そう言い渡されても経済的余裕もなく、移転先も見つからず、それから15年もの間、両親の所に居座り続けるという厳しい状況が続きました。舅は自宅の階下が自分の店でありながら、埼玉県・越谷へ支店を出し、亡くなるまでずっとそこへ通勤せねばならず、今思えば辛かったろうと思います。そんな中で私は、両親と主人との間を取り持って何とか認めてもらおうと孤軍奮闘してきました。そして両親との軋轢や厳しい経済状況、過酷な労働による精神的・肉体的ストレスは、ガンの大きな原因になっていたことを御神語奉唱によって分からせていただきました。
 そんな私たち夫婦でしたが、御神光を賜り夫婦一体、親子一体の神の道に少しずつ近づけていただき、今では心から横山の両親に感謝し、主人にも心から有り難い気持ちがわき、夫婦一体にかなうようにさせていただきましたことにつき、
教祖様に深く感謝申し上げています。店の明け渡しを求められていた入信当時には、想像もしなかった安心の境地です。
 入信前はそんな状況で両親の手前、私は授かった全員の子を産んであげることができませんでした。私の人生において最大の罪悪は、水子をつくってしまったことです。それがガンの一番の原因と気づきました。
 平成21年、当時ガンの状況は、患部が山のように盛り上がり頂の部分はかさぶたになっていますが、その下部は黄色く膿んでいて、だんだんと痛みが酷くなってきていました。
 1月11日も痛みのため、御神語奉唱をしていると急に、7年前、私の乳ガンを知った信者さんが下さった手紙を無性に読みたくなり、その手紙を取り出し、2回3回と読ませてもらいました。
 そこには、「神霊教で説く神の道に従えば、必ず実証によって救われる。しかし反すれば滅亡する」などの御道話、また、
教母様の御指導、事務局のご指導、ご自分の体験、組の方の体験が書かれており、最後に「何か間違ったところがあると思います」とありました。
 私はその頃、ガンの原因は、自分の傲慢な態度と言動にあることに気づいていましたが、分かっていても止められない状態でした。 (つづく)
(東京都 横山玉枝)