聖帝・昭和天皇3

国家と国民のことを第一に
昭和天皇は、先帝大正天皇の御健康が優れなかったため、大正10年11月25日に20歳で摂政に就任され、摂政宮と称されました。
大正15年12月25日、大正天皇の崩御を受けて践祚され、第124代天皇となられ、元号は昭和と改められました。
以後、国事多端の時代が始まり終戦まで続きました。昭和の初期から軍部が台頭し、満州事変(昭和6年)、支那事変(昭和12年~)と大陸では戦火が拡大し、国内ではテロが相次ぎ、独・伊に台頭したファシズムが力を得ると、我が国の指導者層もこれに幻惑されて進路を見失い、日独伊三国同盟問題(昭和14年~)などが起こりました。


昭和11年11月、日本はドイツと防共協定を結び、昭和12年10月には、イタリアとも防共協定を結び、日独伊防共協定が成立しました。
昭和14年1月、平沼騏一郎が組閣した直後、ドイツから「三国防共協定を三国軍事同盟に発展させてはどうか」という誘いがきました。海軍大臣・米内光正と海軍次官・山本五十六は「米英と戦う可能性も生まれてくる」ということで反対しました。連日、ドイツと結ぶか否かで閣議が開かれましたが、結論が出ることはありませんでした。
そんな状況が続く中で、8月23日、ドイツはソ連と相互不可侵条約を結んでしまいました。
8月28日、平沼騏一郎は「欧州の情勢は複雑怪奇」という声明を発し内閣は総辞職しました。そして9月1日、ドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が始まったのです。
昭和15年9月27日の「日独伊三国同盟」調印を控えて、昭和天皇が内大臣・木戸幸一に漏らされたと伝えられる内容が木戸幸一日記9月24日に見えます。
「独伊との同盟締結につき、左の如き思召(おぼしめし)あり、誠に恐懼(きょうく)す。『宮内(くない)大臣に取調べさしたるに、日英同盟の時は宮中では何も取行はれなかった様だが、今度の場合は日英同盟の時の様に只慶(ただよろこ)ぶと云うのではなく、万一状勢の推移によっては重大な危局に直面するのであるから、親しく賢所(かしこどころ)に参拝して報告すると共に、神様の御加護を祈りたいと思ふがどうだろう』との御尋ねなり。勿論、宮内大臣とも相談致し、充分御気持を御満足被遊様(あそばされるよう)取計ふべき旨奉答す」(木戸幸一日記 下巻825頁)
マッカーサー「われ神を見たり」
このように国と国民のことを心にかけられる昭和天皇であられたからこそ、マッカーサーを初めて訪問された日(昭和20年9月27日)に、戦前、戦中、昭和天皇の仰せを謹んで承らず宸襟(しんきん)を悩ませ申し上げた人物らの罪までをもすべて含めて、「政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の採決に委ねるためにお訪ねした」と、お一人で背負うことを申し出られたのである。
マッカーサーは、「もし国の罪をあがなうことができれば進んで絞首台に上ることを申し出る、この日本の元首に対する占領軍司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした」と述べ、回想録には、「その崇高なお姿に『われ神を視たり』と心の中で叫んだ」と記しています。
昭和61年には在位60年記念式典が挙行されましたが、昭和64年まで(神代を除き)歴代天皇で最長の在位期間を記録され、87歳と、歴代の天皇で(神代を除き)最も長寿であられました。
在位中の元号である「昭和」により、昭和天皇と追号されました。